新堀城(摂津/和泉国・堺市)

別称> 不明

住所> 大阪府堺市北区新堀町

比高(標高)> 0m(13m)

形態> 平城

時期> 室町・安土桃山期

アクセス> 北花田駅が近い

歴史

『大阪府全志』の海船館の項、『全堺詳志』の政所の項、『堺市史』第七巻の三好長輝の項によると、三好之長は堺の海船館(政所)を中心に摂津の尼崎城、河内の小山城・古市城、和泉の新堀城・岸和田城に諸将を入れおいた(前二書は「海船政所記」を引用している)。支城のようなものだろうか。

天正三年四月、石山合戦の中で信長は天王寺、住吉、遠里小野付近に陣取り、その後大坂付近で作毛を薙ぎ捨て、遠里小野でも薙ぎ取った。その後十河因幡守と香西越後が立て籠る「堺の近所に新堀と申出城」を取り囲んだ。火矢を射、埋草を入れ、大手・搦手から攻め落城した(『信長公記』、『織田軍記』)。『信長公記』には、この時討ち取った人物の名が列挙されている。

構造・現状

『信長公記』などに登場する新堀城は『大阪府全志』や『日本城郭大系』では大阪市住吉区長居にあった堀村と推測している。本願寺支城の新堀城がどちらにあったか確定はできないが、どちらにしろ住吉の方は環濠集落で、また保利神社由緒より城があった。またこちらも海船館の支城の可能性は高いだろう。

なお、新堀集落は中世は摂津国に属していた。そして今手元にそれをかいた資料はないが、Wikipediaによると摂泉国境は長尾街道であったらしい。つまり新堀集落は国境に接する集落なので、和泉と記されても不思議ではない(実際、国境に位置する集落が反対側の国名で記される例はある)。新堀城は五箇荘村新堀にあった可能性は十分考えられるだろう。

新堀集落は先述の通り堺と大和を結ぶ長尾街道に面し、今昔マップの明治四十一年測図の古地図をみると西側に今池という名の池が今の中学校・公園付近にあり、海船館の支城としては適切な立地と思われる。また三好方の十河因幡守と香西越後が籠ったという流れも違和感はない。ただ具体的な位置は不明である。

史料・資料> 調べている途中

『日本城郭大系』、『大阪府全志』、『全堺詳志』、『堺市史』第七巻、『信長公記』、『織田軍記』

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