金剛寺(河内国・河内長野市)

別称> 天野寺城(「安満了願軍忠状」)

住所> 大阪府河内長野市天野町

比高(標高)> 0m(176m)

形態> 城郭寺院(陣所)

時期> 南北朝期

アクセス> 

金剛寺には駐車場もあり、バスも通っている

歴史

(年号は史料に依ったので、北朝年号と南朝年号が混在している)

天野山金剛寺は奈良時代から続く著名な寺院で、南北朝期に両勢力の合戦が度々行われ、その過程で城郭化した。

まず、元弘三年(1333)に楠木正成が金剛寺に、関東の幕府軍が金剛寺に城郭を構えようとする噂があるが、寺家で抵抗するよう求めている(「金剛寺文書」楠木正成書状)。まだ城郭化はされていないが、城郭たり得るものではあった。

以降、金剛寺周辺では南北朝期を通して数度の合戦が起こるが、金剛寺が明確に城郭化されたのはその一回目である建武四年十月十九日の天野合戦で、横山合戦で後退した南朝方の籠る金剛寺を北朝方が攻めた時、金剛寺には「三城戸」が設けられ(「日根文書」日根野盛治軍忠状)、「天野寺城」と称された(「紀伊続風土記付録」安満了願軍忠状)。なお、上記の「日根文書」では城戸を破ったのちに焼き払ったものとして、「天野合戦と金剛寺々辺の中世城郭」引用では「坊舎」とあるが、『大日本史料』や『地域論集Ⅱ 日根野氏』所引では「在家」とある。

正平九年(1354)には拉致された北朝皇族と南朝の後村上天皇の行宮となり、この時に山木がみな切り払われたという(『薄草子口決』)。この用途は不明であるが、天皇らが寺内の建物を行在所としているので、何らかの防御施設、もしくは山城構築のためかもしれない。ともかくこの時に南朝の重要拠点となった。

後村上天皇は後に観心寺に移るが、正平十五年(1360)に畠山国清が金剛寺に乱入し焼き払っている(『天野山金剛寺古記』、『金剛寺聖教類奥書集』、『太平記』)。これは南朝方の陽動作戦で誤って攻撃したものと考えられているが、やはり金剛寺が軍事拠点と認識されていたことがわかる。

正平二十四年(1369)には長慶天皇も金剛寺に移った(『鴨脚本 皇代記』)。そして応安六年(1373)に長慶天皇の天野(金剛寺)を北朝方が攻撃し(『後愚昧記』、「石清水文書」、『桜雲記』)、この時金剛寺は「天野敵陣」「天野陣」と呼ばれた(『花営三代記』)。

構造・現状

金剛寺周辺では仁王山城を始めとする山城や「山屋敷」が南北朝期から戦国期に整備されたが、ここでは金剛寺についてのみを書く。

「金剛寺境内図」は戦国期の金剛寺の様子をある程度反映しているものと考えられているが、その中には、金剛寺の三つの入り口に枡形虎口のような構造や、狭間と思われる穴、土居などが構築されていることが描かれている。

今、仮に「金剛寺境内図」と今昔マップの昭和七年「富田林」の地図と大阪府の埋蔵文化財地図の天野山金剛寺遺跡の範囲を元に三つの枡形の位置を推定してみる。

大手の河内口(北東)は現在の総門であるだろう。そして紀州口(南東)は金剛寺旧境内の端で道と川の分岐しているあたりなので34.425750, 135.532718あたり、和泉口(南西)は34.427285, 135.529453だと思うが、想像に過ぎない。

また、金剛寺内には天皇の行在所などが残っている。

(金剛寺境内図は『河内長野市城館分布調査報告書』には解説があり、『河内長野市遺跡調査会報VIII 天野山金剛寺遺跡』にはカラー図版が、同『天野山金剛寺遺跡 その2』には大きい図版が収録されている。また金剛寺には実物(複製?)が展示されている。)

史料・資料> 明確に城郭、軍事拠点として記すもの

「金剛寺文書」、「日根文書」、「紀伊続風土記付録」、『薄草子口決』、『花営三代記』、「金剛寺境内図」、「南河内における楠木氏の諸城砦」(『日本城郭大系』)、「天野合戦と金剛寺々辺の中世城郭」(『河内長野市城館分布調査報告書』)、『南河内における中世城館の調査』


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