服部砦(摂津国・高槻市)

別称> 服部村堡(『摂津志』)、服部古城(『摂陽群談』)

住所> 大阪府高槻市大蔵司

比高(標高)> 0m(25m)

形態> 平城

時期> 戦国期

アクセス

真上城などと共に巡るのがいいだろう

歴史

『大阪府全志』などには三好長慶が郡家の支城(今城)に水を引く時に水源であるこの地に砦を築いたと記されている。一方で『摂陽群談』などでは松永久秀が築いたとし、その跡が残っていたという。両書の記述から、松永久秀が今城に引いた水の水源を守るため築いたと考えられるが、定かではない。しかし、中世から今城塚古墳の周濠を通る今井手用水の取水口である「今井手井堰」と真上村など周辺の多くの村々に用水を供給する「真上村井堰」が大蔵司集落北部にあって(『芥川上流域における水論の史的研究』)、この位置は字「大蔵司」にかなり近い。また、郡家村と真上村の用水相論を三好長慶が裁許したこともある。字「大蔵司」は足利将軍祈願寺の「大蔵寺」があったと推測され(『高槻市史』第一巻)、同寺には文明十四年に細川政国が駐留した(『翰林葫蘆集』)。服部砦の基礎はこの頃にできていたかもしれない。なお、「服部古城」は芥川山城の呼称であるとも推測されている(「芥川山城と芥川城」)。

構造・現状

その位置として『大阪府全志』に字「大蔵司」が記されている。これは今の高槻市大蔵司ほど広い範囲ではなく、下のマップで示した地点周辺である(小字地図は『高槻市史』第三巻付図)。元和元年に川替えされる前の芥川に面しており(前掲『芥川上流域に〜』)、今城に水を引く起点になることは想像できる(ちなみに、田中城付近にも用水施設があったようである)。『摂陽群談』などが記された江戸期には跡が残っていたようだが、『大阪府全志』の記された大正期までには消滅したようである。ただ同書には「郡家井戸」と呼ばれる小池があると書いてあるが、これも今は確認できない。

史料・資料

『摂陽群談』、『摂津志』、『摂津名所図会』、『大阪府全志』、『大阪府誌』、『日本城郭大系』、「芥川山城と芥川城」(『しろあとだより』21号)

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