「天王寺城」について
大阪市天王寺区の中心部、四天王寺などがあるあたりには四つの城があり(サイトホームのマップ参照)それは四天王寺陣所、大塚城、勝曼砦、天王寺城とある。大坂夏の陣での陣所である四天王寺陣所を除くそれぞれの基礎的情報を整理すると、
・大塚城 茶臼山陣城ともいう。大坂の陣で陣所として使用された以前に、細川氏綱・細川晴元間の合戦で「天王寺大塚へ城」が構えられた。(『細川両家記』、『大阪府中世城館事典』)
・勝曼砦 本願寺の支城として「勝曼ノ塔ニ城ヲ築」いた。(『陰徳太平記』)
・天王寺城 石山合戦で佐久間信盛が拠った。(『摂津志』) 『東摂城址図誌』は所伝なしとしている。
石山合戦におけるこれらの城砦は「本願寺ー天王寺城(織田方)ー勝曼砦(本願寺方)」という位置関係になる。また、天王寺城ー勝曼砦間は300mしかなく、対立している砦にしては近すぎるように感じる。
しかし、ここで織田方の「天王寺城」を大塚城と仮定すると、(上記の三つ目の)天王寺城と勝曼砦が同一という仮定ができる。(しかし、この時点で『摂津志』の意見と食い違っている)
そうすれば位置関係の問題は違和感がなくなるのではないだろうか。
ここでの問題点は
①摂津志の記述と齟齬が生じている
②天王寺城の城域は図誌で規定されており、勝鬘院まで含むと考えにくい。
の二点であるが、自分はこの問題はいまだ解決できない。
①は『摂津志』が誤っている(実際誤りは多い(『椿井文書』中公新書))、②は当時象徴的であったであろう多宝塔を利用したが、主要部は月江寺にあった(多宝塔は石山合戦でやけている(『愛染 : 寺誌』))ということ強引な推測でしかない...
なお、天王寺城は勝鬘院付近だという説もあるが、根拠の小字も中世城館とは考えにくいなど難点がある(『図解近畿の城郭』)。
ちなみに『大阪府誌』第五編の月江寺の項を見ると、執筆された明治36年までは堀が残っており、真田の抜け道とされているが誤りだとしている。空堀だけでは城郭遺構と断定できない上、もはや残っていないので確認のしようがないが、伝承なども含め月江寺付近に天王寺城があった可能性を高めるかもしれない。
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