芥川山城(摂津国・高槻市)

別称> 芥川城(史料上の名称)、原城(「東摂城址図誌」)、三好山城

住所> 大阪府高槻市原

比高(標高)> 130m(180m)

形態> 山城

時期> 戦国期

アクセス

ここ付近から登山道が続いている。

歴史

(能勢氏が城主であった頃までは史料に当たったが、それ以降は他の文献に依った。機会を見つけ次第内容を充実させたい)

 芥川山城は本来は「芥川城」である。しかし平地の芥川城と区別するため芥川山城と呼称されるようになった(『高槻市史』)。平地の芥川城の存在がほぼ否定された以上、芥川山城を芥川城を呼んでもいいのだが、まだまだ浸透していない気がするので、ここでは芥川山城と呼称する。


 芥川山城は、両細川の乱の過程で細川高国によって永正十二年に築かれた。「西国一之要害之上手」である出雲の住人馬木繁綱の意見に任せ(『不問物語』)、「昼夜朝暮五百人・三百人」の人夫を動員して築かれ(『瓦林政頼記』)、同時期に築かれた河原林正頼の越水城が同書に「毎日五十人百人」を動員したと書かれていることに比べると、高国が芥川山城をより重要視していたのがわかる。城主には能勢頼則(頼豊)が抜擢された。能勢頼則は連歌に造詣が深く、連歌師の宗長は新城の祝いとして永正十三年正月十五日に「うちなひきいつこかのこる春もなし」と詠んでいる(『宗長記』、『那智籠』)。そして宗長は一度有馬に湯治に向かい、復路に玄清・宗硯・肖柏らと芥川で千句を開催している(『宗長記』、『那智籠』、『春夢草』)。能勢頼則はその後すぐの八月には亡くなり、芥川山城はその後継者である国頼が継いだ。よく二代目城主とされる能勢頼明は能勢氏の系図中にのみ見られる人物であり、系図に書かれた通称や事績から明らかに史料上に見える「能勢源五郎国頼」を指している。なお、永正の錯乱の際に「能勢源次郎」が討死しており(『不問物語』など)、頼則の通称が源次郎、国頼の通称が源五郎であることを踏まえると討死した「源次郎」と「源五郎国頼」は頼則の子息で兄弟であると思われる。

 能勢国頼が城主であった頃の大永三年にも宗長が「城山能勢源五郎」の元で千句に参加しており(『宗長記』)、国頼は高野参詣帰りの三条西実隆を芥川で歓待している(『高野参詣日記』、「能勢家文書」)。その後少なくとも大永五年までは城主であったことが記録されており(「大徳寺真珠庵文書」835号)、同年に霊松寺へ牛飼山を寄進している(「霊松寺文書」)。大永七年二月の細川晴元方の侵攻で高国方は後退し、この時芥川山城は他の摂津の諸城と共に開城した(『細川両家記』、『足利季世記』、『陰徳太平記』)。能勢国頼は天文三年に細川晴国から芥川の地の知行を許されているが(「能勢家文書」)、実現されることはなかったと思われる。

 細川高国を討った細川晴元は、一向宗や法華宗との対立で京都に入ることができず、天文二年から天文五年の間まで芥川山城に滞在した。その時期は芥川山城は摂津の守護所となっており、訴訟が持ち込まれるなどもしていた。晴元の入京後も晴元方の城郭として機能し、晴元が在城していた時期もあった。その後晴元と三好長慶の争いの中で長慶や晴元被官の薬師寺与一が在城していたが、天文十六年に三好方によって薬師寺与一の芥川山城は開城し、長慶は芥川孫十郎を城主にした。しかし芥川孫十郎は二度長慶と対立し、長慶は帯仕山に付城を築き落城させ、芥川山城には長慶自身が入ることになった。

 三好長慶は芥川山城主となり、城内では村落の相論裁定が行われ清原枝賢が儒学の講義を行うなどし、芥川山城は軍事・政治・文芸の中心地として繁栄した。長慶とその家臣団は芥川山城に居住していた。永禄三年に長慶が飯盛城に移った後は、彼の息子である三好義興が芥川山城を継いだ。

 織田信長と足利義昭は永禄十一年に上洛したが、上洛する前に先に芥川山城を落城させ二週間程度滞在し、三好氏の天下支配から彼らの支配への移行を示した。信長の上洛後は和田惟政が芥川山城主に任ぜられたが、すぐに高槻城に移ったことにより、芥川山城の歴史は幕を閉じた(以上は主に『日本城郭大系』、『大阪府中世城館事典』)。

 詳細は芥川城の記事にまとめたが、近代以前は芥川山城の歴史は全て平地の芥川城のものとされており、地誌等でも芥川山城が触れられていることは少ない。『摂津志』に原村に城砦があることが記され、「東摂城址図誌」と『大阪府全志』では三好長慶の居城であるとの伝承を記してはいるが、『大阪府全志』は懐疑的である。

構造・現状

 その構造は大きく三つの郭群に分けられ、主郭など広大な曲輪が多く配置される西の郭群、「出丸」とも呼ばれ石垣が多く構築されている中央の郭群、土塁で囲まれた郭や小さい郭が多く配置される東の郭群がある。現在もその広大な曲輪群や土塁・土橋・竪土塁・石垣などの遺構が非常に良好に残っている。

 山頂の主郭の発掘調査では礎石建物や焼土層が検出され、三好長慶や家臣が山上に住んでいたことが明らかになった(『大阪府中世城館事典』)。

史料・資料> 調べている途中

「大徳寺真珠庵文書」、『宗長記』、『那智籠』、『春夢草』、『不問物語』、『瓦林政頼記』、『細川両家記』、『足利季世記』、『陰徳太平記』、『行嚢抄』、『摂津志』、「東摂城址図誌」、『大阪府全志』、『高槻市史』第一巻、『日本城郭大系』、「戦国初期の摂津国人層の動向」、『大阪府中世城館事典』、「永禄十一年の足利義昭・織田信長の上洛と芥川城」(『しろあとだより』20号)、「芥川山城と芥川城」(同21号)

0コメント

  • 1000 / 1000