堺公方府(和泉国・堺市)

別称> 堺幕府

住所> 大阪府堺市堺区宿院町

比高(標高)> 0m(4m)

形態> 平城(幕府、政治拠点)

時期> 室町期

アクセス> 自分は堺台場から歩いたが宿院駅からすぐ

歴史

両細川の乱で、細川高国と澄元の後継者晴元が争っていた際、出奔した足利義稙に代わり高国は義晴を擁立し、高国政権は一時の安定を得たが、政権内での内部分裂が原因で晴元派が勢力を拡大し、大永七年二月、高国・義晴は近江に没落する。晴元派の勢力拡大により阿波にいた足利義維は晴元と同年三月に上陸し、四条道場(引接寺)に入る。以降、晴元派の中心として義維は「堺公方」と呼称され、改元を無視した御内書や奉行人連署奉書を発給した。その後も和睦にもなりかけたが晴元派は高国派と争い、享禄四年についに高国が自害に追い込まれた。しかし晴元派も内部分裂を引き起こし、晴元は本願寺とともに三好元長を堺の顕本寺で自害させる。この時義維も四条道場より顕本寺に向かい自害しようとしたが晴元に止められ戻される。そうして享禄四年中に義維は出奔し阿波に戻り、堺公方政権は終わった(『足利義晴と畿内動乱』、「堺幕府はどこにあったのか」)。

一時的とはいえ、引接寺を中心として政権が存在していた。ちなみに、『和長卿記』によると永正五年四月二十七日に大内勢と上洛した足利義稙も堺ではここに入っている。

構造・現状

引接寺の旧位置は『堺市史』第七巻によると「宿院御旅所以西、宿院町西一丁以南」であった。現在は遺構はない。

史料・資料> 調べている途中

『厳助往年記』、『細川両家記』(四条道場に居たこと記す)、『堺市史』、「堺幕府はどこにあったか」(『堺市博物館研究報告』第31号)

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