丸山城(摂津国・能勢町)
<別称> 天王丸、地黄古城(『日本城郭大系』)、能勢城(『能勢町史』第一巻p504)
<住所> 大阪府能勢町地黄
<比高(標高)> 41m(281m)
<形態> 山城(平山城?)
<時期> 中世
<アクセス>
道は整備されている。南側の石造九重塔(34.959095, 135.458333)から大手道を進む方法、案内板付近にある入口(34.959688, 135.459643、気づきにくいが、柵を開けて入る場所がある)、道が若干わかりにくいが北側(34.960881, 135.459075)から入る三つのルートがある。
<歴史>
能勢氏の居城とされる。『寛政重修諸家譜』の能勢氏の系図では国基からと記されているが、同家譜の元になった「能勢氏系図」(『真如寺所蔵能勢家文書』所収)には国基は能勢郡を領したとしか記されず、「能勢氏系図」から『寛政〜』に改訂される過程で、丸山城が居城であった事実から書き加えたものと思われる。よって正確な築城時期は不明である。また『東摂城址図誌』、『大阪府全志』は能勢頼国とする。これは能勢氏関係の系図(上記や、『尊卑分脈』)に見える国基の祖父を指しているかもしれないが、能勢を名乗った形跡すらなく、伝承のようなものであるだろう(『大阪府全志』は源満仲の男とするが、孫である)。『摂陽群談』は能勢小重郎が築いたと記す。これは或いは同書の岐尼神社の項にある能勢小重郎と塩川伯耆守の戦に関連しているかもしれないが、「小重郎」は不明である。能勢頼弘流の頼則以降は「十郎」を名乗ったと系図は記すが史料上の「能勢十郎」が彼らを指すかは不明である(『真如寺所蔵能勢家文書』補論)。
庶流家とされる能勢頼弘の子息、能勢頼則は芥川(山)城を築城したことで著名だが、彼は連歌師との交流も深く、彼が開催した「摂州千句」は「能勢頼則許にて」催されたものであった(「下草」『続群書類従』第十七輯下)。よって頼則の居宅、丸山城で行われたと想定されている(『能勢町史』第一巻p483)。ちなみにこれは細川政元なども参加したものであった(「大阪天満宮文書」『高槻市史』第三巻243号)。
能勢頼道は塩川氏に殺害され、その後塩川氏の攻撃や羽柴氏との対立から為楽山城を築き、丸山城は捨てたとも(『能勢町史』第一巻p507)、出城になったとも(『大阪府全志』)言われる。
<構造・現状>
大手口につながる南側の構造は非常に単純だが、北側の縄張りは非常に複雑かつ技巧的になっている。
まず北側の登城口からつながる部分には蔀状の土塁があり、さらに南の堀切土橋までに一つの空間ができており、何かしらの意図があった可能性も考えられる。その後は急な切岸の北側の細長い曲輪に沿って細い道があり、堀・竪堀・竪土塁などが絡み合っている。その後は虎口と思われる場所を通った後、南北端に櫓台状の土塁を備えた主郭に到達する。
主郭は帯曲輪を回し、東側には浅い横堀、西側には複雑な竪堀が配置される。
西側の竪堀は案内板縄張図・自作縄張図・『大阪府中世城館事典』縄張図でどこまでを遺構とするか解釈が異なる。自作縄張図の西端にある円状のくぼみは自然地形に思えたが、他は堀のように思えた。また北側には巨大な堀切らしきものが二重にあるが、切通かもしれない。
(丸山城の立地は、北側により高い山が存在し、決して軍事的に優れた立地とは言い難いが、これは『大阪府中世城館事典』も記すように中世を通じて平和・安定した能勢郡とそれを統治した(厳密には、能勢氏の根本所領は田尻荘である)能勢氏を表しているようであるが、縄張は非常に戦闘的であり、改修された可能性がある。ではいつだろうか。
能勢郡で戦乱が巻き起こったのは、記録上には三回である。天文十四年の細川晴元によるもの、天正七年の織田軍によるもの、その翌年の塩川氏対立以降によるものである。これを便宜的に第一、二、三次侵攻と呼ぶ。第一次侵攻の際には、後に塩川氏・波多野氏が支配していることを踏まえると(『能勢町史』資料編中世史料240号など。『戦国摂津の下剋上』にも詳しい)両氏が主戦力になっていたことが想定され、南北から侵攻を受けたことになる。第二次は有馬郡より入ったと『信長公記』に記されるが、あくまで「薙捨」のため大規模な侵略ではない可能性も含まれる。しかし二次史料には壮絶な戦闘が描かれ(これまた『戦国摂津の下剋上』に詳しい)、やはり戦闘があったと見て良いだろう。この時の能勢勢に使用された城郭を見ると、南、西に偏っており、有馬郡より、おそらく現三田市、川西市を経由し到達したと思われる。第三次侵攻は上記の塩川氏の単独の攻撃であり、そもそもその存在自体がよくわからないのであるが、能勢頼次は為楽山城を築き丹波明智勢と連携したがすぐに落ち延びたとされる。丸山城の改修を想定するなら、第一次か第二次であり、能勢郡が危険な状態になった対晴元期から信長との対立時であると想定できる。また信長勢が北側より侵攻する可能性は低く、この縄張は丹波方面からの攻撃を想定したものであろう。つまり細川晴国没後〜第一次侵攻の間の可能性が考えられるが、段階的に改修された可能性もあり、あくまで想像である。)
「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」によると、丸山城を含む能勢郡の軍事性の高い城館は永禄から天正期に改修されたと考えられている。
<史料・資料> 調べている途中
『寛政重修諸家譜』、『摂陽群談』、『摂津名所図会』、「摂津国名所旧跡細見大絵図」※、「東摂城址図誌」、『大阪府全志』、『大阪府誌』、『年輪』、『日本城郭大系』、『能勢町の中世城郭』、『ガイド能勢町』、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『大阪府中世城館事典』、『能勢町史』第一巻
※同絵図の「能勢大領古城」の位置はおかしいが、『摂津名所図会』の記述から丸山城を指すと思われる
<ちなみに>
丸山城の東側をずっと歩いていると、とある地点から丸山城の内部の堀切が真横に見える(とある地点:34.960566, 135.459422)
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