古橋城(河内国・門真市)
<別称> 不明
<住所> 大阪府門真市御堂町
<比高(標高)> 0m(4m)
<形態> 平城
<時期> 安土桃山期
<アクセス>
駅から近い、また近くは駐車場もある
<歴史>
元亀二年(1570)に三好三人衆が挙兵し、野田・福島城を築き織田信長に対抗した際に、織田方の三好義継・畠山昭高が八月十七日に古橋城に籠り三人衆方と戦闘、敗北した。
籠った人数は三好・畠山150ずつの300人(『細川両家記』、『足利季世記』、『陰徳太平記』)あるいは400人(『尋憲記』)で、討死にしたのは226人(『尋憲記』)あるいは300人(『言継卿記』『多聞院日記』)あるいは討死218、生捕30(『細川両家記』『陰徳太平記』)と細かい数字は異同があるが、300~400人籠り200~300人討死したと分かり、かなりの大敗であった。
<構造・現状>
遺構はなく、位置も不明。『日本城郭全集』は地形より願得寺から古川の一帯であると推測するが、これは『大阪府全志』で字「古橋」を元に推定されているものでもある。ここあたりには普賢寺があったとされ、発掘調査でも確認されているという(『北・中河内〜』)。
また『全集』は門真市立第一中学校あたりにあったとする説も載せる。ちなみに、『日本城郭大系』では「所在地不明」とされている。
<史料・資料> 調べている途中
『泰国家譜』、『二條宴乗日記』、『言継卿記』、『多聞院日記』、『尋憲記』、『細川両家記』、『足利季世記』、『武徳編年集成』、『陰徳太平記』、『フロイス日本史』(以上は『北・中河内〜』に記されたもの。下線は『大日本史料』第十編之四所収)、『大阪府全志』、『日本城郭全集』、『日本城郭大系』、『大阪府史』第四巻付図、『北・中河内における中世城館の調査』、「二見密蔵院軍忠書上控」(『大和二見密蔵院文書』、直接見ていないが、載っているらしい)
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