三津寺砦(摂津国・大阪市)

別称> 三塚(「難波三塚」『甫庵信長記』、「三塚」『明智軍記』)

住所> 大阪府大阪市中央区心斎橋筋二丁目

比高(標高)> 0m(4m)

形態> 平城

時期> 安土桃山期

アクセス> 

難波駅から近い

歴史

天正四年(1576)、石山合戦(厳密には大坂本願寺合戦)において、本願寺の支城であった三津寺砦は原田直政ら織田勢に攻められたが、楼の岸砦からの本願寺勢の援軍により織田勢は敗北し、原田直政は討死した。織田勢は他に三好康長、根来・和泉・大和・山城衆であった。

なお、この砦は「木津」と記す史料(『言継卿記』、「谷城址保管文書」、『年代記抄節』)と「三津寺(三寺)」と記す史料(『信長公記』、『教如上人御消息集』など)、木津と三津寺の間とする史料(『歴代御書』)があるが、『信長公記』、『明智軍記』では三津寺を木津と楼の岸の間であるとしているため、三津寺が正しいと思われる。

構造・現状

遺構はない。また一帯が三津寺荘であるため、必ずしも三津寺とは断定できない。

『信長公記』が記しているが、三津寺砦は本願寺の主要な支城である楼の岸砦と木津砦の中間地点であり、繋ぎの城として重要な位置にあったと思われる。

史料・資料> 史料は「三津寺」と記したもののみ

『信長公記』、『教如上人御消息集』、『明智軍記』、『歴代御書』、『総見記』、『日本城郭大系』

<ちなみに>

写真の通り、工事中である。どうやら三津寺ホテルを真上に建てるらしい。原田直政以下大勢が討死した場所にホテルということになるが、こういうことは言いだすと際限がない。

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