三津屋城(摂津国・大阪市)
<別称> 中島城(下記<歴史>参照)
<住所> 大阪府大阪市淀川区三津屋中
<比高(標高)> 0m(1m)
<形態> 平城
<時期> 中世
<アクセス>
十三駅か神崎川駅が近い。大通りに面してはいないが地図アプリを参考に向かえば迷わない場所にある。
<歴史>
楠木正行が築城し、後に三好長慶が拠ったとするのは諸書が一致し、これは『摂陽群談』及び『摂津志』の記したものが元になっていると思われる。『摂陽群談』はこれを中島城に比定し、三好政長が討死した地とした。これは『摂津名所図会大成』や『西成郡史』でも記されるが、『大阪府全志』の言うように従い難いもので、江口城との混同と思われる。
『東摂城址図誌』には「光専寺古書」という同寺の住職秀山が江戸幕府に提出した寺伝を掲載するが、これには楠木正行の城跡に楠木氏末裔の末広正顕が永正六年(干支から判断すると十六年)に菩提を弔うために光専寺を再興したものと記す。楠木正行については、『太平記』に見える貞和三年頃、四條縄手合戦の前に楠木正行が中島の在家を焼いていたということに関連するのだろうか。
三好氏に関するものは誤伝である可能性がある。
<構造・現状>
遺構は消滅しているが『東摂城址図誌』には描かれており、光専寺(『大阪府史蹟名勝天然記念物』によると字「城の前」)とそれを囲むように字「馬洗」が描かれている。
現在光専寺は立入禁止だが、門前には案内板がある。
また、『大阪府全志』、『大阪府誌』等には周囲を囲む水路が堀の名残と記している。自分は見つけなかったが、あるいは当時は残っていたのかもしれない。
<史料・資料>
『摂陽群談』、『摂津志』、『摂津名所図会大成』、『西成郡史』、『大阪府全志』、『大阪府誌』、『東摂城址図誌』、『大阪府史蹟名勝天然記念物』、『日本城郭大系』
<ちなみに>
上記『東摂城址図誌』所収の「光専寺古書」(□は文字が読み取れなかったもの。自分の能力不足もある)
光専寺古書
口上覚
但当寺屋敷ハ御年貢地ニテ御座候
一、当寺儀ハ貞治年中楠木正行出張之城跡ニテ候所実如上人後在世之時永正六年己卯年中奥開基末広正顕入道者楠木之末葉ニシテ治郎左衛門尉ト申入ニテ父祖之菩提ヲ為弔城跡ニ一宇ヲ再興シテ夫ヨリ南正妙徳正詮正西葉秀田秀佺秀詮貞秀海秀甫秀山ハ血脈ヲ継住持相続仕候往古之開基ハ知レ不申候
一、八幡宮之古跡寺内ニ御座候楠木多門兵衛正成再興之由申伝候依之近郷ヨリ当寺屋敷ヲ城ト申習候三津屋村三家末広吉光吉宗也加嶋庄開基末広也稲荷社宮田寺末広社務トシテ下知ス八幡宮屋敷境内ニ有ト雖□兵乱之故ニ退□ス敷地ハ楠木多門兵衛清政之城跡ト聞伝ヘ申候
一、末広姓名ヲ拾ル事ハ古昔大内参し給仕イタシ候処事有朝恩ニ預リ奉之公宣ト□此名乗ヲ被下候也
一、末広ハ加島庄内十余家之内三津屋村ト申ハ惣領也当村中外ニ吉光吉宗二家御座□依之三津屋村□□□
右之通聞伝□以上 摂州西成郡北中島村三津屋村光専寺 秀山
天明九酉二月 御本山御役人中様
(枠外)
右之通天明九酉年江戸寺社御奉行ヨリ諸国一統ニ自他宗共寺ニ由縁緒御改有之節如此ニ認メ奉差上□依テ控書遣シ置候
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