池尻城(河内国・大阪狭山市)
<別称> 不明
<住所> 大阪府大阪狭山市池尻中
<比高(標高)> 7m(76m)
<形態> 平城
<時期> 南北朝期
<アクセス>
大阪狭山市駅から、周辺城館と一緒に巡るのが良いと思う。
<歴史>
延元三年(1338)九月二十九日に、佐備三郎左衛門尉正忠、高木遠盛が「池尻半田」に向かい、合戦をした時(「高木遠盛軍忠状」『和田文書』、『南山巡狩録』)と、正平二年(1352)八月二十四日にあった「池尻合戦」(「和田助氏軍忠状」『和田文書』)で使用されたとされている。『狭山町史』では近隣の野田城が楠木方であったことから、南朝方に属したと推測する。
また、「楠木合戦注文」には元弘三年(1333)一月十四日に楠木正成が河内守護代と合戦をしたとき「池尻」の地頭御家人が追い落とされたと記されている。
<構造・現状>
『狭山町史』が書かれた当時は、ある程度遺構が残っていたようで写真も掲載されているが、『日本城郭大系』の出版時までには開発が進み、おそらくさらに開発が進み今に至ると思われる。また、往時の池尻城の写真は狭山池博物館の郷土資料館でも見ることができ、発掘調査に基づく模型がある。
発掘調査では、第一期(13世紀末〜14世紀)の居館遺構・第二期(14世紀中頃〜15世紀前半)の城郭遺構として堀、建物、柵、橋が検出されたほか、瓦器腕を始めとする日常雑器や、三目結文様を持つ冑金なども出土した。三目結文様は佐々木氏の家紋で、佐々木氏が河内に出陣したことに符合するという。第一期は空堀を巡らせた方形居館で、第二期に郭の数を拡大した。その他、全国遺跡報告総覧や図書館で確認できた報告書を元に他の発掘調査をまとめると、
平成元年:池尻城の西側を画すると見られる堀とその肩部を保護する石組が検出(『池尻城跡発掘調査概要4』)
平成六年:溝が検出されたが、時期不明。他に城館関連の遺物はなし(市報告書5)
平成七年:特になし(市報告書6)
平成十七年:中世の遺構・遺物はなし(市報告書16)
平成十八年:特になし(市報告書17)
平成二十年:中世の遺構・遺物はなし(市報告書19)
現在も、池尻城の名残である段丘崖は見ることができ、上記のように郷土資料館で展示も見ることができる。また、関連する小字も多く残っている(『狭山の地名五十話』)。
<史料・資料>
(「楠木合戦注文」、『和田文書』、『南山巡狩録』)、『日本城郭大系』、『狭山町史』、『狭山の地名五十話』、『池尻城跡発掘調査概要4』、『大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書』5, 6, 16, 17, 19、『大阪狭山市史』、『南河内における中世城館の調査』
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