芥川城(摂津国・高槻市)

別称> 芥川古城?(『摂津名所図会』)

住所> 大阪府高槻市殿町

比高(標高)> 0m(16m)

形態> 平城

時期> 中世?

アクセス

高槻駅が近く、歩いて行くことができる

歴史

芥川城の歴史は、現在になってからより複雑なものになっている。それをどう纏めたらよいか難しいので、研究史のような形で書くことにする。

近世・近代には、芥川城は地誌などに多く現れる。『摂津志』や『摂津名所図会』、『大阪府全志』などの記述は一貫し、貞和〜康安年間に芥川右馬允が築き芥川氏の居館として機能していたが、芥川氏が戦国期の両細川の乱に巻き込まれた結果、三好長慶によって落城し…と途中より、現在芥川山城と呼ばれる城山の歴史となっている。

戦後の『高槻市史』では永正二年に比定した『宇津山記』の記述から、細川政元によって芥川城は能勢頼則が二度城主になり、後の細川高国政権の時期に芥川山城が築かれ能勢国頼が入り、それ以降は芥川山城が城郭として機能したと論じた。一方でそれ以前の芥川城は芥川氏が在城し、勢力の拡大と共に西国街道の屈曲を作り出したとも推測した。『日本城郭大系』はこの記述を引き継いだが、『高槻市史』が参考にしていた『瓦林政頼記』の誤りを推定し、芥川山城が築かれたのは永正十二年で、能勢頼則が城主であったことを明らかにした。これらの記述が今に至り芥川城の歴史として認識されていたが、発掘調査では何も出土せず、考古学的にその存在は疑われていた(『嶋上郡衙跡他関連遺跡発掘調査概要8』)。

2021年になって、ついに『宇津山記』の年次比定が誤っており、史料上の「芥川城」は全て永正十三年以降の芥川山城であることが証明された(「芥川山城と芥川城」)。これによって歴史学・考古学の両面から芥川城の存在が疑われることになり、おそらくは芥川城はなかったものだろうとされることになった(ちなみに明治三十六年の『大阪府誌』に引用される『宇津山記』は永正十一年に比定されていた)。

ただし、芥川宿にあり芥川城の位置を示すとされてきた字「殿の内」が存在しており、発掘調査でも鎌倉〜南北朝期の居館を想定することは可能であるとしている。また、細川政元が摂津に下向し芥川に家屋を立てた記録も残っている(『後法興院政家記』延徳三年正月廿五日条)。何らか軍事性のある施設が存在していた可能性は残されているかもしれない。

構造・現状

位置は字「殿の内」であるとされていた。しかし『摂津志』、『摂津名所図会』ではその位置を字「山城垣内」としており、これは芥川山城の麓の城山垣内を示しているとも考えられている。だが『大阪府誌』では「殿垣内」と併記されていて、これらの小字は「東摂城址図誌」に描かれているので、これも芥川宿周辺を指しているのだろう。字「殿の内」には現在でも大正八年に建てられた芥川城跡碑が残っている。

史料・資料

『後法興院政家記』、『摂津志』、『摂津名所図会』、「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」、「東摂城址図誌」、『大阪府誌』、『大阪府全志』、『日本城郭大系』、『嶋上郡衙跡他関連遺跡発掘調査概要8』、「芥川山城と芥川城」(『しろあとだより』21号)

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