真上城(摂津国・高槻市)
※図は国土地理院電子国土Webを加工
<別称> 不明
<住所> 大阪府高槻市西真上
<比高(標高)> 0m(21m)
<形態> 平城
<時期> 中世前期?
<アクセス>
高槻駅から他の諸城と共に巡るのがいいだろう。笠森神社は毎月1日・5日・15日・25日のみ開門するらしいので、境内に入りたい場合は日付を選ばないといけない。ちなみに自分は1月15日(2022年)に訪れたが、閉まっているようだった。
<歴史>
「真上氏子孫次第」(『高槻市史』第三巻史料編184号)には、南北朝期に真上荘に復帰した真上政資が三十年余り在城したと記されている。文和元年の「摂津国真上村田地注文」(同106号)には「真上城屋敷」が記録されており、その東西南北限(四至)が記されている。特に南限は「堀笠懸馬場南」であり、『高槻市史』第一巻ではこの記載を元に笠森神社付近をその位置と推定した上で、江戸期の庄屋中村氏は真上城の跡にその居宅を構えたとした。しかし享保十年の「真上村文書」に、真上村の「城屋舗」という所に「四方屋らかいの堀跡」があり田地になっている旨が記されている。字「城屋敷」は近世中期以降の字「小川西」であり、ここから真上城は現在の真上小学校の北付近にあったとわかる(『芥川上流域における水論の史的研究』)。また、同書によると、真上城と中村氏との間にも関係はなかったという。
<構造・現状>
『芥川上流域における水論の史的研究』の図や他の史料を元に現在の地図に字「城屋敷」の範囲を復元したのが上の図である。東西に50m強、南北に60~80mの規模であり、土豪の居館としては十分の規模であるといえ、上記の通り四方に堀が巡っていたこともわかっている。そして真上城が存在していた頃はその南に集落があったと推測されている(前掲書)。また、『高槻市史』の推定した範囲であると、笠森神社とその東部付近が城跡となる。どちらの位置であっても遺構は残っていないが、小川を防御・用水に利用したであろうことは想像することができる。
<史料・資料>
「摂津国真上村田地注文」、「真上氏子孫次第」、「真上村文書」、「真上村絵図」、『高槻市史』第一巻、『日本城郭大系』、『芥川上流域における水論の史的研究』
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