沢良宜城(摂津国・茨木市)

別称> 不明

住所> 大阪府茨木市美沢町

比高(標高)> 2m(8m)

形態> 平城

時期> 室町期

アクセス

モノレールの沢良宜駅が近い

歴史

応永六年の応永の乱の際、沢良宜城主の藤井三位が当時の将軍職であった足利義持より「御馬廻り免状」を頂き、幕府(足利義満)方として家老や郎党を従え参陣したという(『わがまち茨木 城郭編』)。また「勝尾寺文書」中の鳥居造立時に寄進した者の名簿に見える沢良宜の「野村大夫」が沢良宜城主として推定されている(前掲書)。沢良宜城の衰退は1400年代前期頃と考えられている。

近世近代の地誌では『摂津志』に沢良宜村の城砦が挙げられており、『大阪府全志』ではこの記述を引いて沢良宜の三つの大字のどこにもその跡は認められないと述べている。また「東摂城址図誌」では詳細な図と共に「古老口碑云之」と記しており、伝承があったことがわかる。

『日本城郭大系』では『摂津志』の記述から山田城十三支城の一つとしているが、『摂津志』の記述はあくまでも山田城の項でその他の島下郡の塁堡を列挙しているだけで、これは『五畿内志』全体で使用される方式であるので、支城であるとは考えられない。

構造・現状

「東摂城址図誌」に詳細な図が描かれ、明治期の当時には既に耕地となっていたことがわかる。茨木川と坊領川に囲まれた佐和良義神社を含む一帯を城域と考えると東西約180m、南北約210mの長方形、図誌に描かれる字「城ノ内」「城ヶ内」を城域と考えると一辺約80m強の正方形になる。土豪の居館としては規模は十分であるだろう。茨木市の小字地図(「新修茨木市史』第八巻)では一帯の字は「宮西」であるが、地割は「図誌」と似ている。佐和良義神社の南北に長い境内は乗馬訓練のための馬場であると推測されている(『わがまち茨木 城郭編』)。

平成29年に埋蔵文化財としての登録範囲内で発掘調査がされているが、遺物・遺構は検出されなかった(『平成29年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報』p24)。また2021年にも調査が行われたが、遺構・遺物は確認できず、本来の遺構面は既に攪乱されている可能性が高いとされている(『令和3年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報』p27)。

現在は遺構は消滅しているが石碑及び案内板が美沢公園内にあり、馬場であったとも推測されている佐和良義神社も見所となっている。字「城ヶ内」は南茨木ハイタウンがあるあたりのがあるあたりの中央部、佐和良義神社拝殿の西付近。

史料・資料

『摂津志』、「東摂城址図誌」、『大阪府全志』、『日本城郭大系』、『わがまち茨木 城郭編』、『平成29年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報』、『令和3年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報

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