烏帽子形城(河内国・河内長野市)

元弘年間に楠木氏に築かれ、高向氏が入り、南北朝期には畠山氏が在城したと伝わる。

畠山氏をはじめとする河内の勢力の合戦の最前線として度々合戦が起きた。

羽柴秀吉により天正十二年に改修された。

また、周辺にキリシタンが多くいたことでもキリシタンが多くいたことでも知られる。


二基の礎石建物(多聞櫓と考えられている)が出土している主郭は大土塁の可能性があり、その場合東の広い曲輪が主郭ということになる。それを囲む堀・土塁は非常に感動する。西側の空堀は少しクネクネになっているが、それは自然地形と思われる。一部は二重の堀で囲まれており、これが秀吉による改修のものであると考えられている。実際現地に行くと不十分で無理矢理掘ったような印象を受ける。一部サイトや古い文献ではさらに広大に曲輪が広がっているとされるが、それは否定されている。(以上、『大阪府中世城館事典』、『烏帽子形城総合調査報告書』、『河内長野市城館分布調査報告書』。構造については一部自分の推測・感想を含んでいる。)


また、烏帽子形城には二つの支城があったとされる(『日本城郭大系』)位置比定は烏帽子形城の支城について参照。(かなり無理矢理です) 

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