私部城(河内国・交野市)
<別称> 交野(片野)城、極楽寺城(『大阪府史』)、安見右近城(『多聞院日記』)、後家が城(「発掘調査からみた私部城」)
<住所> 大阪府交野市私部
<比高(標高)> 4m(27m)
<形態> 平城
<時期> 中世(戦国)
<アクセス>
駅からも近く、駐車場も近くに多くある。
<歴史>
元亀元年(1570)に「片野に安見右近」が居り、その他摂河各地の信長方(三好三人衆に対して)の「城々堅固に」構えられたといい(『信長公記』巻之三)、この頃には安見氏の拠点として整備されていたと思われる。
元亀二年(1571)五月に安見右近は信長から離れた松永久秀により切腹させられ(『言継卿記』)、十二日に久秀・久通父子が「カタノ」の「安見右近城」へ出陣したものの、落とすまでに至らず二十七日までに奈良に帰還している(『多聞院日記』、『二條宴乗記』)。
元亀三年(1572)にも松永久秀は交野城を攻めるが、ここでは付城(私部城付城も参照)を構築した。しかし信長勢の救援で今回も落城には至らなかった(「誓願寺文書」、『信長公記』巻之五、『年代記抄節』、『畠山家譜』)。
地誌等では天正年中に廃城となったとされるが、おそらくは正しいものと思われる。
なお、天文十一年(1542)には「交野ニ鷹山居陣候て」とあり(行松康忠書状「岡田謙一氏所蔵文書」)、この頃に私部城は無かったと思われるが(南北朝期の築城は偽伝とされる)、似た位置であったかもしれない。
<構造・現状>
現在は、破壊は進んでいるが、大阪府下の平地城館としては非常に良くその遺構を留めている。住宅街の中に急に現れる堀は圧巻で、郭や堀が遺構として残る他、高低差も存在する。構造は連郭式(郡郭式)で堀切(堀)を隔て郭が並立しつつ、小郭が周囲に配置されている。また小字に「城」「天守」があり、何らかの天守に近い建築物が立っていた可能性もある。(縄張図もいずれ描こうと思っている)
発掘調査も行われており、隣接する市場の存在などが確認されている他、戦国期の城館として非常に珍しい瓦が出土している。その他最近でも郵便局南隣の発掘調査で盛土による郭・堀・土塁が確認された。
<史料・資料> 史料は明確に私部城を記すもの
『多聞院日記』、『二條宴乗記』、「誓願寺文書」、「信貴山文書」、『信長公記』、『畠山家譜』、『室町殿日記』、『年代記抄節』、『土佐国蠧簡集残篇』、『五畿内志』、『大阪府全志』、『大阪府誌』、『大阪府史蹟名勝天然記念物』、『日本城郭大系』、『交野市史』、「室町戦国期古城址・古戦場図」(『大阪府史』第四巻)、『図説近畿の城郭』、『近畿の名城を歩く』、『大阪府中世城館事典』、「発掘調査成果からみた私部城」(『飯盛山城と三好長慶』)、『北・中河内における中世城館の調査』、『大阪春秋』174号(私部城に関する特集)、「私部城跡発掘調査速報展(パンフレット)」
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