私部城付城(河内国・交野市)

別称> 史料上では「相城」、「取出」

住所> 大阪府交野市私部南

比高(標高)> 0m(24m)

形態> 付城(平城)

時期> 中世(戦国)

アクセス> 

私部城のついでに行くのがいい

歴史

元亀二年(1571)五月に松永久秀父子が私部城を攻めた際、松永勢は五月二十七日には撤退したものの、「あい城の衆」は残っていたとされ(「信貴山文書」)、何らかの付城が構築されていたと思われる。

翌元亀三年(1572)四月にも、私部城を攻める松永勢は「取出を申付」て(『信長公記』)、これに対し信長勢が四月十七日に「相城」を一つ落としている(『年代記抄節』)。

また、『信長公記』にはこの取出に対し信長勢はこれを囲むように「しゝ垣」を構えたと記されている。

構造・現状

上記の付城の位置は不明だが、私部南遺跡の発掘調査で確認された巨大な薬研堀がこの付城に関するものではないかと考えられている。

もちろん遺構などは消滅しているが、現地に跨線橋があったため登ったら私部城が望めると思ったがわからなかった。

史料・資料> 

「信貴山文書」、『信長公記』、『年代記抄節』、『近畿の名城を歩く』、「発掘調査からみた私部城」(『飯盛山城と三好長慶』)、「戦国私部城 信長との戦いを巡って」(『大阪春秋』174号)

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