地黄陣屋(摂津国・能勢町)

別称> 地黄城、丸山新城(『日本城郭大系』)、地黄第(『摂津名所図会』)、地黄村館(『能勢家由来旧記書抜』)

住所> 大阪府豊能郡能勢町地黄

比高(標高)> 0m(257m)

形態> 陣屋

時期> 江戸期

アクセス

真北に真如寺駐車場がある。真如寺は能勢氏ゆかり(「能勢家文書」で有名)なので、一緒に巡ると良いかもしれない。

歴史

能勢氏は丸山城を本拠にしたとされ、『能勢物語』によると天正八年(1580)に没落したとされるが、一方で『信長公記』や『中川家譜』に見える前年の織田軍の侵攻の際に没落したともされ(ただし『信長公記』は「薙捨」という記述に留まる)、定かではない。能勢氏が没落したのは確かなようでこの頃より各地で能勢姓の人物が現れる(『土佐国編年紀事略』や『賤嶽合戦記』など。関連は不明)。

能勢頼次は徳川家康に属し、関ヶ原合戦や大坂の陣に参戦したことで能勢郡に復帰した(「譜牒余禄」など)。そして地黄陣屋が築かれるが、その築城は『能勢家由来旧記書抜』(『能勢町史』第三巻303号)に詳しい。

慶長七年(1602)に既に家城を築いていた頼次であったが、再び築くことを決め元和元年八月から、山田勘兵衛を奉行として築かせ、十月下旬には完成した。この時町割を命じた書状も収録されるが、それによると①誰でも土地を取ったら、二十間は家を建てないといけない②家と家の間は三間の余分を空ける③誰の抱えの人物であっても、家を建てたら望み通りに渡す④寺との境は川で切る(もしくは、寺と堺川は切り立てる)⑤土地ととったら家を建てないといけない、の五箇条があった。

こうして完成した地黄陣屋は『能勢物語』で石塁を高く築き、大門を構え、殿舎・楼閣を建て、高塁の上には高塀を作り狭間を設け、美麗を尽くしたものと表現される。

これは案内板や『日本城郭大系』に掲載される絵図も表しているが、同書によると現在所在不明のようである。

構造・現状

現在も陣屋としては希少な石垣があり、横矢や枡形を配置するなど発達した構造を持っている。なおいくつか矢穴なども見つけた(自分が見つけたのは枡形の部分)。

ただ枡形虎口は非常に小規模で高さも低く、あくまで権威・象徴的なものの可能性もあるのではないだろうか。

『能勢物語』や『日本城郭大系』縄張図にあるように裏側に堀があったようだが、自分は見ていない(見忘れた可能性も)。

『大阪府全志』によると地黄陣屋を築き丸山城下にあった町を地黄陣屋に移し三町を設け、これが今の北町・中町・南町であるとする。それもを元に下の復元図を作成した。なお小字は他にも「西中町」「西南町」「市場」などありもっと広かった可能性もある。

史料・資料

『能勢家由来旧記書抜』、『摂陽群談』、『摂津名所図会』、「摂津国名所旧跡細見大絵図」、『大阪府全志』、『大阪府誌』、『日本城郭大系』、『能勢町史』、『ガイド能勢町』、『大阪府中世城館事典』


↓地黄陣屋城下町復元図。能勢町小字地図(『能勢町史』第一巻附図)と『大阪府全志』の記述より地理院地図電子国土WEBを加工して作成。

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