耳原砦(摂津国・茨木市)
<別称> 耳原塁(『摂津志』など)、耳原古城(『摂陽群談』)、耳原城
<住所> 大阪府茨木市耳原
<比高(標高)> 1m(23m)
<形態> 平城
<時期> 戦国期
<アクセス>
総持寺駅からはそれなりの距離がある。車なら、耳原公園の駐車場を利用して糠塚陣所や白井河原古戦場と共に巡ることができる。
<歴史>
多くの地誌類で天正年中に明智(惟任)光秀が築いたと記されている。『摂陽群談』は『武城旧記』を引用し、その後織田辰之助が城主になったとも書いている。
南側は西国街道に面しており、惟任光秀が築いた西国街道沿いの城郭としては現大阪府島本町の山崎砦が挙げられ、山崎砦は天正十年の山崎の戦い直前に羽柴秀吉に備え築かれたものとされる。これと関連しているものの可能性が想像できる。ただ西国街道沿いには堀が確認できないなど(ただし、明治・大正期の状況しか分からないので、破壊された可能性もある)、疑問点も残る。
<構造・現状>
『わがまち茨木 城郭編』では場所は明らかでないとされているが、法華寺の境内の由緒碑には、「耳原塁の一角に」法華寺が創建されたとあり、ここ付近であったことが分かる。
「東摂城址図誌」には中央の「薮」と南を除く三方に「堀」が描かれる。西側の南北が三十間(約55m)、北側の東西が二十七間五歩(約50m)、東側は東西に折れ曲がり五間(約10m)となる。「東摂城址図誌」は明治期の状況を示したものなので、かつては南側にも堀があったかもしれない。以上から大凡の規模が50m四方だったと思われ、規模から考えると土豪の居館であったかもしれない。また「古城古戦場古墳古跡書上控」や『大阪府全志』が編纂された明治・大正期にも三面の堀は残っていたようである。
<史料・資料>
『摂陽群談』、『摂津志』、『武城旧記』、「東摂城址図誌」、『耳原村誌』、「古城古戦場古墳古跡書上控」(『新修茨木市史 史料集2』)、『大阪府全志』、『日本城郭大系』、『わがまち茨木 城郭編』
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