山辺城(摂津国・能勢町)

別称> 鷹爪城、小富士の城(『日本城郭大系』)

住所> 大阪府豊能郡能勢町山辺

比高(標高)> 200m(430m)

形態> 山城

時期> 戦国・安土桃山期

アクセス

ここ付近から直登した。

歴史

能勢郡西郷の西郷諸侍中の代表的存在で多田院御家人の大町右衛門尉平宗長が在城した能勢氏の詰城で(『摂陽群談』など)、天文年中に織田氏の命を受けた塩川国満により落城させられた(『大阪府全志』など)。天文年中の能勢郡侵攻は織田氏ではなく細川晴元によるものなので、これは若干誤っているが、天文年中に落城したことは諸地誌類で一致するので、細川晴元の能勢郡侵攻(『能勢町史』第三巻197, 240号参照)で大町氏が籠り戦ったということになる。

大町氏は中央と関わりの強かった能勢氏と異なり能勢郡に大きな影響力を持ってたと思われ、「月峯寺領水帳」(『能勢町史』第三巻163号)にも「大町殿」が多く見える。

『中川家譜』によると天正七年(1579)の織田氏の能勢郡侵攻の際に山辺城には「能勢丹波守義純」が籠ったが落城し討死した。丹波守も義純も能勢氏には見られない名前ではあるが、能勢郡の中心的城郭であったことがわかる。

構造・現状

能勢町最大規模の山城で、主に三つの曲輪群に分けられる。西側にある二つの曲輪群はいくつもの曲輪があり、随所の石垣(石積)が見られる。東側の曲輪群は少し離れており出城のようにも見える。ここは土塁で囲まれており、また虎口には横矢がかかるようになっている上堀切を設けるなど発達した構造になっている。規模・構造・比高全てが能勢郡域で突出しており、それらからは信長の畿内進出以降の能勢の中心城郭であることが分かり、能勢氏が主導したとも考えられている(「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」)。

史料・資料

「慶長十年摂津国絵図」、『中川家譜』、『摂陽群談』、『摂津志』、『摂津名所図会』、「摂津国名所旧跡細見大絵図」、『大阪府全志』、『大阪府誌』、「東摂城址図誌」、『日本城郭大系』、『能勢町の中世城郭』、「中世城郭と土豪 多田・能勢地方の場合」、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『能勢町史』第一巻、『ガイド能勢町』、『大阪府中世城館事典』

<ちなみに>

「慶長十年摂津国絵図」には「山野邉村」とあるので、もしかしたら「やまのべ」と呼んでいたかもしれない


東側の曲輪群

西側の曲輪群

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