野間城(摂津国・能勢町)
<別称> 野田城(「東摂城址図誌」、ただの誤り)
<住所> 大阪府豊能郡能勢町野間中
<比高(標高)> 119m(359m)
<形態> 山城
<時期> 中世
<アクセス>
迷いやすいが、田んぼの間の道を進んでいきここら辺から館経由で登城道がある。途中で鳥居を通る。
<歴史>
多田高頼が野間に改姓・移住し築いた。野間豊後守資持の代、天正八年(1580)に塩川長満の攻撃で落城したとされる(「東摂城址図誌」)。
野間氏は能勢採銅所の預職(奉行職)であった大江氏であったと考えられており(『能勢町史』第一巻)、大江氏が野間を本拠に野間氏となった可能性が高いので、多田高頼の後裔というのは能勢地方で活動するにあたっての名乗りのようなものである可能性がある。
なお、南北朝期に能勢城に南朝方として城主であったが北朝方に裏切った内藤満幸(『続本朝通鑑』、『系図纂要』、『池田氏家譜集成』)の能勢城は野間城であったらしいが、この話は「池田氏が楠木氏の末裔だった!」という伝説の過程でしか登場しないので、よくわからない。野間氏はもちろん、能勢氏も塩川氏も周辺の多田院御家人は皆北朝方であったので、果たして南朝方が能勢地方にいることができたのか...
<構造・現状>
北側は二つの尾根に沿って曲輪が配置されている。図面だけ見ると横矢のようにも見えるが、規模的にも地形に従った結果だろう。主郭がどれだかわかりにくいが、南の堀切のすぐ北の方形曲輪を櫓台とするなら、その下の広い曲輪が主郭だろう。虎口は枡形のようにも見えるが不明。櫓台らしきものの南側には大堀切がある。ここは非常に大きく、能勢町、大阪府でも有数の規模ではないだろうか。さらにその南には三条の畝状竪堀があり、最後は土橋堀切で尾根を切断している。
<史料・資料>
『系図纂要』、『摂陽郡談』、「東摂城址図誌」、『大阪府全志』、『日本城郭大系』、『能勢町の中世城郭』『能勢町史』第一巻、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『ガイド能勢町』、『大阪府中世城館事典』
左下は枡形風の虎口。非常に浅いので判別できない。
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