土丸・雨山城(和泉国・泉佐野市)

別称> 槌丸城(「日根文書」)、都智丸城(『園太暦』)

住所> 大阪府泉南郡熊取町大字成合/泉佐野市土丸

比高(標高)> 233m(312m)

形態> 山城

時期> 南北朝期(戦国期)

アクセス

現在はハイキングコースが整備されており、いくつかの登城口がある(自分はここを利用)。

歴史

土丸・雨山城の初見は土丸城で、四條縄手合戦の前の貞和三年(1347)11月に高師泰から日根野道悟に土丸城の警固を命じている(「日根文書」)。四條縄手合戦後に南下した高師直・師泰軍に対応して、貞和四年(1348)1月に日根野道悟の子息時盛が警固を命じられている(「日根文書」)。しばらく史料に表れなくなるが、南朝方の城となったようで観応三年(1352)5月に淡輪重継が土丸城を攻撃し、おそらく落としたため文和二年(1353)五月再び南朝方に落とされた(『園太暦』)。ちなみにしばらくして没落した日根野時盛は文和二年八月に畠山国清を通して新恩給与を求めているが、ここに「為槌丸城主」と見える(「日根文書」)

永和元年(1375)八月に南朝方の橋本正督が幕府方として土丸城で寝返り、紀伊国の南朝方を攻撃した(『花営三代記』)。橋本正督は再び南朝方になるが、そのためか土丸城は南朝方に属し、永和五年(1379)正月に幕府方山名氏によって落とされた(『花営三代記』)。この時は和田和泉守が籠っていたともいう(『桜雲記』、『南方紀伝』)。弘和二年(1382)にも南朝方の楠木正勝が籠り山名氏が落とした(同上)

明徳三年(1392)の明徳の乱の際、大内義弘が紀伊の山名義理を攻めたが山名勢は雨山・土丸両城に籠り戦おうとするも、美作勢が寝返り落城した(『明徳記』、『桜雲記』、『南方紀伝』)。

応永六年(1399)の応永の乱の際に、大内勢は土丸に陣を置き和泉国を支配する案が出された(『応永記』)

文明十六年(1484)十二月に畠山政長・義就が土丸で合戦している(「日根文書」)。

戦国期に日根荘の住民が戦乱時に自衛のため「山入り」「山あがり」という行動をしたものは土丸・雨山城である可能性がある(『大阪府中世城館事典』)。

また戦国期に根来寺衆が信長の命で整備している(「淡輪文書」)

構造・現状

雨乞いの山でもある雨山城部分は主郭や千畳敷の周りに小曲輪が地形に沿ってある。鳥居のある部分は美しい堀切土橋となっている。月見亭付近からは美しい荘園集落が見える。

雨山城主要部と土丸城主要部の間には二つの曲輪群があるが、どちらも規模は小さく、土塁などはあるものの地形に沿ったあまり意図的なものは感じない。ただ土丸城に近い方の曲輪群を谷筋に降ると(かなり距離がある)、小さい滝があるほか、石垣遺構がある(『大阪府中世城館事典』では石積みとしているが、栗石があったので石垣と思う。詳細は不明だが、近世以降のものではないだろうか)。

土丸城部分には見事な武者隠しがあるほか、まとまった面積の曲輪がいくつかあり、尾根筋は堀切で断ち切っている。

史料・資料

「日根文書」、「淡輪文書」、『園太暦』、『花営三代記』、『桜雲記』、『南方紀伝』、『明徳記』、『応永記』、『家記』、『和泉一国古跡名所』、「和泉地方の農事調査書」、「泉州四郡村高」、『泉州志』、『和泉志』、『泉州記』、『全堺詳志』、『御手鑑』、『和泉国在名高寺社地并古城名所記』、『和泉名所図会』、『先代考拠略』、『かりそめのひとりごと』、『和泉郡村記』、『泉のひびき』、『大阪府誌』、『大阪府全志』、『泉南記要』、『北中通村誌』、『大阪府史蹟名勝天然記念物』、『岸和田志』、『日本城郭大系』、『地域論集Ⅰ 土丸城・雨山城』、『近畿の名城を歩く』、『大阪府中世城館事典』

(敢えて土丸城と雨山城の間を示した)

0コメント

  • 1000 / 1000