片山城(摂津国・能勢町)
<別称> 塩山城(『日本城郭大系』)
<住所> 大阪府豊能郡能勢町片山
<比高(標高)> 115m(315m)
<形態> 山城
<時期> 安土桃山期?
<アクセス>
東麓付近の片山八幡宮付近から、地理院地図にも描かれている道があるので、そこから登れる。
<歴史>
『摂陽群談』では「所傳、鹽(塩)山肥前守源景信在城の古跡、下屋敷・末家等今にあり」、『摂津名所図会』にも「傳え云ふ、鹽(塩)山肥前守源景信在城の古迹なり。下屋敷幕下の士の苗孫今にあり。」と記され、『大阪府全志』には「鷹仁(応仁)年中鹽(塩)山肥前守源景信の築きて築きて據(拠)りし所なりといふ」と応仁年間であることが記述されている。「東摂城址図誌」には西面が弧を描く曲輪が一つ描かれており、「村伝曰塩山肥前守源景信在城」とされる。『大阪府誌』第五編にも似たような内容が書かれている。
一方で『摂津志』では「片山備後守居此」とある。
『能勢町史』第三巻76号の「能勢群西郷郷士覚書写」は篠村八幡宮に陣取った足利高氏のもとに、片山村からは「塩山氏」など十六の武士が向かったというが片山氏は見当たらない。また同書203号「能勢郡諸侍書上覚写」では片山村の諸侍として「塩山方」など二十ほどの名前が挙げられているが、こちらにも片山氏はいない。
なお、塩山氏などの西郷諸侍中は『能勢町史』第三巻193号などに見えるように幾度か討伐されている。このうち『信長公記』、『中川家譜』に記される天正七年(1579)の織田軍の侵攻の際に、片山城に塩山肥前守景信が籠ったが、中川清秀の配下田近長祐に降伏を勧められ開城したことが『中川家譜』に見える。おそらく上の地誌等はこれを指しており、応仁年中の記述は誤りであると思われる。監視・連絡の城として機能したとも推測されている(『能勢町の中世城郭』、「中世城郭と土豪」)
ちなみに『能勢町史』第一巻付図の能勢町大字・小字地図によると、片山城の小字は「上山」「金剛山」である。一方の東麓には「屋敷垣内」「塩山垣内」などの小字が存在する。
<構造・現状>
主郭部は方形に近く、西側以外のほとんどをほとんどを土塁で囲んでいる(写真右上)。東側には虎口がある。帯曲輪を通路とすると進行方向に直角に折れ曲がる形になっており、技巧的な構造になっている(写真左上)。
北側は破壊を受けているので、城域がどこまでであったかは不明。南側は主郭の土塁下に僅かな溝があるが、堀切とは呼べないほど浅いので不明(写真右下)。もう少しもう少し南に進むと土橋堀切がある(写真左下)。ここまで、そしてここから南は平坦ではあるが削平地と考えにくく、傾斜がある。
<史料・資料>
『中川家譜』、『摂陽群談』、『摂津志』、『摂津名所図会』、「摂津国名所旧跡細見大絵図」、『大阪府全志』、『大阪府誌』、「東摂城址図誌」、『日本城郭大系』、『能勢町の中世城郭』、「中世城郭と土豪 多田・能勢地方の場合」、『能勢町史』第一巻、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『ガイド能勢町』、『大阪府中世城館事典』
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