上杉城(摂津国・能勢町)

※転がっていた岩が原因なのかよくわからないが、方位磁石が狂ってしまい、縄張図の正確性はあまり保証できない。


別称> 槻並城(『日本城郭大系』)

住所> 大阪府豊能郡能勢町上杉

比高(標高)> 30m(300m)

形態> 平山城

時期> 中世?

アクセス

ネット上ではこの場所から道が続くとあるが2020年2月には崩落しており、上杉稲荷神社から尾根伝いに行くしかなかった。駐車場もある上、下記の堀切土橋のようなものも見つけたので案外こっちの方がいいかもしれない。

歴史

『摂陽群談』では「所傳、小鹽(塩)氏在城の古跡、子孫今に至り當住せり」、『摂津名所図会』には「小鹽(塩)氏居城の古迹なり。苗孫今に當村に存在す。」と記される。

『大阪府全志』には「里俗の口碑にいふ、向式部丞の居址なりと。又或はいふ、小鹽(塩)氏のの據(拠)守せし城址なりと。」とし、小塩氏の末裔は今も住んでいると記述されている。『大阪府誌』第五編にも似たような内容が書かれている。

『東摂城址図誌』には円形の曲輪が一つ描かれており登城道は現在と同様に折れ曲がった形になっている。そして「村老ノ口碑ニ向式部丞之城址ト云」と書かれた後に後に『摂陽群談』を引用している。


『能勢町史』三巻76の「能勢群西郷郷士覚書写」は篠村八幡宮に陣取った足利高氏のもとに、上杉村からは「向氏」など六の武士が向かったというが小塩氏は見当たらない。また同書203「能勢郡諸侍書上覚写」では上杉村の諸侍として「向方」など六の名前(前出の六氏とは少し異なる)が挙げられているが、こちらにも小塩氏はいない。


なお、向氏などの西郷諸侍中は『能勢町史』第三巻193号文書や『信長公記』、『中川家譜』に見えるように幾度か討伐されている。そして、天文十八年の枳根宮合戦で、塩川勢が攻め込み上杉城を破ったという(「中世城郭と土豪」)。

ちなみに、『能勢町史』一巻付図の能勢町大字・小字地図によると、小字は「向井」で、後述の出城遺構?も同じ小字内にある。

構造・現状

北側を美しい堀切、東側を非常に浅い横堀で区切る。

南側は枡形にも見える技巧的な虎口が残る。横堀もあるが、非常に浅い。

さらに尾根続きの南側にも堀切土橋のようなものを確認した。しかし城郭遺構かは不明で、後世のものの可能性など広く考える必要があるだろう。「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」によると、西側は畝状竪堀群であるという。

史料・資料

『摂陽群談』、『摂津名所図会』、『大阪府全志』、『大阪府誌』、「東摂城址図誌」、『日本城郭大系』、『能勢町の中世城郭』、「中世城郭と土豪 多田・能勢地方の場合」、『能勢町史』第一巻(p409)、「摂津能勢郡の戦国期城館にみる築城・改修の画期」、『ガイド能勢町』、『大阪府中世城館事典』

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