藤井寺城(陣所)(河内国・藤井寺市)

別称> 葛井寺陣所(寺の名称としては「葛井寺」らしいが、史料上は「藤井寺」が多い)

住所> 大阪府藤井寺市藤井寺

比高(標高)> 0m(30m)

形態> 陣所

時期> 室町期

アクセス> 葛井寺は有名な寺院なので、電車でも車でも行きやすい。

歴史

正平二年/貞和三年九月十七日、細川顕氏と楠木正行が藤井寺で戦ったとき、細川顕氏は藤井寺に陣を敷いていた(『太平記』)。

明応二年に足利義稙が畠山基家を攻めた際、二月二十六日に斎藤氏が藤井寺に打ち入ったことが『大乗院寺社雑事記』同年三月一日条に見える。ここに出てくる「斉藤」(原文では「済藤」)は畠山政長方で、『蔭涼軒日録』同年三月二日条に見え西之浦城に陣を敷いている「斉藤六郎左衛門尉」と思われる。ちなみに『大乗院寺社雑事記』同年四月一日条では藤井寺の西に「済藤」と「紀州衆」が陣を敷いていることが確認できる。先述の『蔭涼軒日録』同年三月二日条によると、畠山基家の籠る高屋城包囲網として藤井寺に遊佐河内守他五千人が陣を置いている。『大乗院寺社雑事記』同年三月十五日条等によると、足利義稙が藤井寺に入る予定であったが、中止になり畠山政長が二十一日に入った。これまた先述の『大乗院寺社雑事記』同年四月一日条には、藤井寺に遊佐勢が入っていたことがわかるほか、三月二十六日にも「済藤・豊岡」が藤井寺に入ったことがわかる。そして明応の政変が起こり、『北野社家日記』同年四月六日条や『親長卿記』四月七日条などにより、畠山政長(及び子の尚順)が藤井寺より没落し正覚寺に入った。このことについて、『後法興院記』四月十一日条や『晴富宿禰記』四月九日条には「藤井寺城」と記されている。明確な記録はないため憶測に過ぎないが、一時は足利義稙の陣所となる計画まで立てられ、それは無くなったにしろ畠山基家攻めの主体であったであろう畠山政長の陣所となった。正覚寺は正覚寺城として百余りの櫓を備えていたという(『大乗院寺社雑事記』同年閏四月十九日条)。藤井寺もある程度の城郭として整備された可能性もあるだろう。もちろん、ただ表現として「城」を用いているだけに過ぎないかもしれないが...

永禄三年七月十九日には、三好義賢(実休)が河内攻めで「小山藤井寺」(細川両家記)、「藤井寺」(足利季世記)に陣を置いた。小山城を含む藤井寺一帯に陣を敷いていたことがわかる。

元亀二年六月十一日には松永久秀が藤井寺に陣を敷き、箸尾氏が離脱している(『多聞院日記』同年六月十二日条)。松永久秀は七月四日までには法隆寺付近に向かったことが同記よりわかる。

構造・現状

葛井寺としては寺院建築などを始めとして見所が多い。ただ城郭としてはあくまで陣所なので、遺構などはない。ただ、楠木正成が藤井寺合戦で旗を立てかけた松とされるものが残っている(楠木正成は11年前に死んだとか、『太平記』による限り藤井寺に陣を敷いたのは細川顕氏であるとか気にしない。そういう伝承があったことは重要である)。

史料・資料

『太平記』、『大乗院寺社雑事記』、『蔭涼軒日録』、『北野社家日記』、『親長卿記』、『後法興院記』、『晴富宿禰記』、『細川両家記』、『足利季世記』、『多聞院日記』(正覚寺合戦関連は『大阪市史』史料編第四巻にまとめられている)

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