根福寺城(和泉国・貝塚市)

※縄張図は描きかけです。西曲輪群は描きましたが畝状竪堀群は途中、東曲輪群は全く描いていません


別称> 金福寺城、野田山城

住所> 大阪府貝塚市秬谷/大川

比高(標高)> 122m(282m)(西曲輪群)

形態> 山城

時期> 室町・安土桃山期

アクセス> ここ付近に案内板があり、向かって右側あたりに階段があるので登ると途中から直登することになり、尾根道に取り付くのでそのまま登る。途中二股に分かれているので右側の上っていく方を登っていくと二重堀切・東曲輪群、左側を進むと西曲輪群に続く鞍部に行く。

保存会の方々の整備により、階段を登って真っ直ぐ進むと難なく尾根に着くようになった。とてもありがたいです。

歴史

多くの地誌類では、松浦肥前守守が野田山城として築き、のちに根来寺が支配し根福寺城と改めたことを記す。ただ熊野愛染(鬼岩)の居城であったとするもの(『和泉一国古跡名所』『和泉地方の農事調査書』『泉州四郡村高』『和泉国在名高寺社地并古城名所記』)や、天野肥前守の居城でもあったとするもの(『和泉地方の農事調査書』)もある。『貝塚市史』によると、熊野愛染は松浦守の渾名であるといい、上記の地誌にも別名としているものもある。松浦守が在城していたのは九年間(『和泉一国古跡名所』、『和泉国在名高寺社地并古城名所記』、『和泉郡村記』)で、具体的には享禄年中や天文二年には在城していたという(『和泉国在名高寺社地并古城名所記』、『和泉郡村記』)。また出城とするものもある。根来寺の築城に関しては諸説あるようで、弘治三年(『加季曽米能飛登利呉止』)や永禄元年に三好氏が築こうとしたのを察知した根来寺が築いた(『大阪府史蹟名勝天然記念物』第4冊)などとするものもあるが、天正年間とするものが多い。また『日輪山清明寺代々記并三谷古記』は永禄七年頃、常福院法主恵林僧が松永の兵に加わり根福寺城に乱悪の書を投げ込んだ話を載せる。おそらくは後述の『井手文書』より松浦守が天文四年に、根来寺が天文十二年というのが正しいだろう。そして根来寺の下で根福寺城は松浦孫五郎虎と木嶋谷の住人が守った。織田氏によって根来寺勢が破れた時に廃城になったという(『大阪府誌』、『大阪府全志』)。おそらくは織田氏ではなく羽柴氏による紀州征伐と思われる。なお根来寺は根福寺を再興し伝法院の末寺としたとされる。根福寺城は松浦守が在城したのちには、根来寺勢と三好氏、のちに羽柴氏によって争われたことがわかる。

『井手文書』には天文四年に松浦守が野田山城として築城し天文十二年に根来寺が根福寺城と改め、天文十三年に秀吉の支配下になったと記されている(『貝塚市史』史料編 天文六年松浦守寄進状)。

また、『朽木集』には僧燈誉が「のた山」で松浦守の元で詠んだ歌が記されているという。

構造・現状

まず初めに二重堀切がある。東端を切断する。そこから東が東曲輪群になっている。地形に沿っていくつもの小さい曲輪が固まっている。一部には長い石積みがあり、城郭遺構というよりは詳細は不明だが根福寺の寺院遺構である可能性がある。周辺の曲輪群も寺院遺構かもしれない。

さらに西に行くと「大門」と呼ばれる場所がある。屈曲した土塁を配置し、技巧的な構造になっている。しばらくは尾根に沿った細長い曲輪が連続するが、やがて城内一の面積を持つ千畳敷に到達する。最近整備され感動的な眺望になった。虎口付近には小曲輪があるが、これは虎口受けのものではないだろうか。北側の尾根にも小規模な堀切がある。

そして千畳敷の南まで直降すると、畝状竪堀がある。畝によっては人の二倍もの高さがあり、それが延々と連なった上で大横堀に接続している。感動で言葉が出ないほど。

史料・資料> 随時更新します

『井手文書』、『朽木集』、『和泉一国古跡名所』、『和泉地方の農事調査書』、『泉州四郡村高』、『五畿内志』、『泉州記』、『御手鑑』、『和泉国在名高寺社地并古城名所記』、『加季曽米能飛登利呉止』、『城跡図』、『和泉郡村記』、『泉のひびき』、『日輪山清明寺代々記并三谷古記』、『大阪府誌』、『大阪府全志』、『泉南記要』、『大阪府史蹟名勝天然記念物』第4冊(以上の和泉国関係の地誌類は『和泉の中世城郭 近世以降の地誌類等にみる』にまとめられています)、『日本城郭大系』、『大阪府中世城館事典』、『近畿の名城を歩く』、「和泉国の戦国期城郭ー紀州からの視点ー」

<ちなみに>

根福寺城は保存会の方々のご尽力で整備が進み、眺望が非常に良く、明石海峡大橋も少し見える(一番下の写真、奥の方にかすかに吊橋らしきものが見える)

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