堀城(摂津国・大阪市)

別称> 中島城(『細川両家記』)、右馬頭城(『言継卿記』)、細川典厩之城(『信長公記』)

住所> 大阪府大阪市淀川区十三本町

比高(標高)> 0m(0m)

形態> 平城

時期> 中世(安土桃山?)

アクセス> 

十三駅からすぐ

歴史

一般的には堀城は「中島城」が別名とされており、『細川両家記』等を見てもそれは確かなのだが、「中島城」(あるいは中嶋城、以下中島と表記)だけでは堀城、柴島城、江口城、加島城、三津屋城と指している可能性のある城館はあまりにも多く、史料上からそれを分類するもの容易ではない。そこで城館が築かれたかを問わず、中島で起きた戦闘をまとめた。

中島の戦争史

「堀城」が確実に使用されたのは細川藤賢の居城として篠原長房が攻撃した永禄九年(1566)で(以下、典拠は上記のページを参照)、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いの際に足利義昭が入った。すぐに義昭は浦江城に移り、しばらくは様子が窺えないが、元亀二年(1571)に本願寺に攻められたともされる。元亀三年(1572)四月以降細川昭元が拠って三好義継や本願寺勢と度々戦闘し、天正元年(1573)二月には落城した。

翌年に荒木村重が中島で本願寺勢と戦闘し一度は勝利するも直後に本願寺の援軍に敗北しているので、本願寺に利用されていた可能性も考えられる。また、天正七年(1579)に中川清秀が得たとする史料もある。

構造・現状

遺構は残っていないが、『東摂城址図誌』にその絵図が描かれ、それを元に範囲が推定されている(上の写真の案内板)。今の武田薬品工業あたりであったらしい。案内板はここにあり、それによると廃城後に残った樹木が「堀の森」と呼ばれ、十三公園の巨木もその名残である。関連してここにある平和地蔵尊の由来書にも似たようなことが記されている。

史料・資料> 明確に堀城を指すもの

『永禄九年記』、『細川両家記』、『足利季世記』、『続応仁後記』、『陰徳太平記』、『中川家譜』、『公卿補任』、『言継卿記』、『興福寺年代記』、『信長公記』、「武田文書」、『年代記抄節』、「加能越古文叢」、「細川文書」、『尋憲記』、「日本耶蘇会年報」、『東摂城址図誌』、『西成郡史』、『大阪府全志』、『日本城郭大系』、『大阪府史』第四巻付図


Googleマップの案内板の位置は案内板での堀城の推定地

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