富田寺内町(摂津国・高槻市)

別称> 不明

住所> 大阪府高槻市富田町

比高(標高)> 7m(14m)

形態> 寺内町

時期> 中世後期

アクセス

富田駅からでも、総持寺駅からでも近い。

歴史

富田は十四世紀末に開創された普門寺の門前町として発達し、浄土真宗の教行寺などを中心として寺内町が発達した。戦国期の富田の大凡の軍事史をまとめてみる。まず、細川政元は文明十四年六月二十二日に「吹田之内富田」に陣取っている(『大乗院寺社雑事記』同日条)。大永四年十二月九日に細川稙国が畠山氏の争いのため富田に陣を進めている(『祐維記』同日条)。享禄四年六月七日には晴元方に敗れた細川尹賢が富田寺に退いている(『後法成寺尚通記』同日条)。一向一揆の拠点にもなっており、天文元年十二月二十二日、一向一揆に対し摂津上郡の武士らが富田道場などを焼いた(『細川両家記』)。しかしその後の天文二年正月、富田の薬師寺国長が一向一揆と戦い敗北した(『本満寺文書』)。その後富田道場(教行寺)は復興され、三好長慶と細川晴元が和睦し、永禄四年五月六日に晴元は普門寺に隠居して富田荘を料所としている(『細川両家記』、『足利季世記』、『重編応仁記』)。永禄九年十二月七日、足利義栄が普門寺に移った(『細川両家記』、『足利季世記』、『重編応仁記』、『陰徳太平記』)。足利義栄は普門寺に滞在し、公家も訪れている(『言継卿記』永禄十年十一月三日条、『晴右記』十二月二十五日条など)。永禄十一年九月三十日、織田信長の上洛戦・摂津攻めでは「富田寺外」が破却されている(『言継卿記』同日条)。山崎の戦いにおいては、羽柴秀吉軍が富田に陣取っていた(『浅野家文書』、『秀吉事記』)。

構造・現状

富田には寺内と寺外があり、寺外では宿泊施設があるなど異なる機能を持っていたと思われ、信長の侵攻に対する態度も違っていた。現在では普門寺城の土塁などを除けばこれと言った遺構は残っていないが、筒井池公園にはかつて筒井池があり、戦国期にもあったとすれば堀や用水として機能したかもしれない。南や北側には町を囲むように水路があり、堀の名残かもしれないと想像できる。

史料・資料

『大乗院寺社雑事記』、『祐維記』、『後法成寺尚通記』、『細川両家記』、『足利季世記』、『重編応仁記』、『陰徳太平記』、『言継卿記』、『浅野家文書』、『秀吉事記』、『日本城郭大系』、『大阪府中世城館事典』

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