天神山砦(摂津国・高槻市)

別称> 天神馬場

住所> 大阪府高槻市天神町

比高(標高)> 30m(45m)

形態> 平山城

時期> 戦国期

アクセス

高槻駅からすぐ

歴史

「天神山」及び「天神(之)馬場」は戦国期に多く陣が置かれ、城郭化がなされたものと思われる。

永禄十一年九月二十九日、織田信長の上洛戦・摂津攻めの過程で足利義昭が天神馬場に進んでいて(『言継卿記』同日条)、また『信長公記』では三十日に織田軍先陣が天神馬場に陣取っていたことが記される。天正六年には、有岡城の戦いで織田軍が摂津に進駐し、十一月九日に天神馬場に陣を置き「天神山御取出」の普請が信長から命ぜられている(『信長公記』)。このことについて、『信長公記』の翌年の十二月の記事に前年の出来事として「天神馬場に御取出被仰付候」とあり、天神馬場から天神山にかけて砦が築かれたものと思われる。また、天正七年の同じく有岡城の戦いの中、三月六日に伊丹表に向かう信長が天神馬場から鷹狩りをしながら郡山に向かっている(『信長公記』、翌年の三月一日にも似たことをしている)。天正十年六月一日に惟任光秀が本能寺に向かう際、老ノ山から右に行けば天神馬場など摂津国に至ることを『信長公記』が記している。同年の山崎の戦いで、羽柴秀吉軍は山崎・天神馬場・富田に陣取っていた(『浅野家文書』、『豊鑑』など)。諸史料を見る限り、先陣が天神馬場に陣取り、秀吉は富田に陣を置いたように思われる。現在神社内にある「秀吉本陣」の石碑のある由来はわからないが、秀吉軍がここに陣を置いたことは確かなようである(『摂津名所図会』や『大阪府全志』などを見ても秀吉本陣の伝承は記載されていない。ただし富田砦が天神山にあるという伝承は『全志』にある)。

構造・現状

高槻市の小字地図(『高槻市史』第三巻)を見ると上宮天満宮のあたりは字「天神山」であり、少し南には字「馬場前」がある。また天神馬場については『高槻市史』第一巻に刊行当時の写真が載っている。上に書いたように、天神山から天神馬場にかけて城郭化された時期があったと思われる。現在でも上宮天満宮は丘の上にあり、正面は大通りが続いている。秀吉本陣跡碑は社殿に向かって左手の石碑群の奥の方にある。

史料・資料

『言継卿記』、『信長公記』、『浅野家文書』、『豊鑑』、『秀吉事記』、『太閤記』、『池田氏家譜集成』、『新撰豊臣実録』、『高槻市史』第一巻

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