榎並城(摂津国・大阪市)

南北朝期に楠木正儀が応安2年3月に天王寺から榎並に退き陣を敷いたという記録があり、榎並城付近であったと推定されている。

「榎並城」という名前の初見は『細川両家記』天文十七年十月二十八日条にあり、三好長慶が三好政長・政勝父子の居城榎並城を攻めた。榎並城は政勝が守るも、政長敗死を知り瓦林城に逃れた。『万松院殿穴太記』の記録などにより、政長の居館として強固な要害を構えていたことがわかっている。築城は天文年間と推定される。

その後は記録から姿を消すが石山合戦時の本願寺の支城の一つに「野江」があり、榎並城と推定される。(以上、『日本城郭大系』)


現在は遺構は消滅、石碑・案内板が設置されるのみ。


【報告書】

大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書平成13年度』p83 

平成22年度 大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書』p1

平成23年度 大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書』p15 

大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書(2013)』 p39 

大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書(2015)』p349 


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